日々の練習メニュー
飯田将成選手の格闘家として恵まれた体躯はどのようにして生み出されたのでしょうか?
日々の練習メニューについて飯田将成選手が語っていました。
基本的には、自らが経営する愛知県一宮町の武神ボクシングジムで練習をしています。
筋トレが30分前後で、ジムワークも3、40分ぐらい。それを週3〜4回行っているようです。
また、朝はランニングに出ることもあるそうです。
しかし、トレーナーもおらず、ミットを持ってくれる人もいないため、ミット打ちも満足には出来ていない現状があります。
練習を教えてくれる人もいません。
ブレイキングダウンの前には1分間を5セット程度の打ち込みを行なったりしていますが、スパーリングも出来ておらず、シャドーやサンドバッグ打ちのみで試合に臨んでいます。
強くなるために、トレーナーをつけたり、出稽古に行くことも考えているとのことです。
既にとても強い飯田将成選手ですが、練習環境は良好とは言えません。
東京で切磋琢磨したい気持ちと、地元で自然と触れ合いながらトレーニングする暮らし。どちらを選ぶかで少し迷っている印象もあります。
鍛え抜かれた拳
ポーランドの刺客選手も驚くような拳の硬さをしている飯田将成選手。
拳が盛り上がっており、鍛錬を怠っていないことがわかります。
朝倉海選手も驚く体力
朝倉海選手やこめお選手などとの階段ダッシュのコラボ動画にて、飯田将成選手は誰よりも多い合計8本の階段ダッシュを行なっていました(合計1700段以上)。
朝倉海選手以外は全員がバテて動けなくなる中、体重の一番重い飯田将成選手は笑顔を見せながら走り切っていました。
朝倉海選手やこめお選手も口を揃えて
と話していました。
プロボクサーを辞めた後も、腐らずに鍛え続けた努力と精神力に脱帽します。
ベンチプレスは110kg
飯田将成選手は、過去にはスミスマシン・ベンチプレスで150kgまで挙げたことがあるようですが、今は手首は肘を痛めており70〜80kgを数セットやるようなトレーニングに切り替えています。
現在、飯田将成選手はベンチプレス110kg(スミスマシンではない)を挙げることができます。
筋肉YouTuberのJIN氏も「初めてで110kgはポテンシャルが凄い」と飯田将成選手を褒めており、「慣れていったら、140kgぐらいは軽々挙げられそうですね」と潜在能力の高さを認めています。
試合前のルーティーン
飯田将成選手はボクシングやキックボクシング、そしてブレイキングダウン等に出場しています。
その試合前にはどうのような準備やルーティーンワークがあるのでしょうか?
試合前の食欲について
試合前は食欲が湧かないタイプのようです。
バナナやゼリー系を飲むぐらいで、減量をリカバリーするためのエネルギーを十分に補給できないタイプであることを明かしています。
試合前は断酒
また、試合前は断酒をします。
試合の1ヶ月前からお酒は全く飲みません。お酒を飲んでしまうと回復力が落ちるそうです。
7本、8本とか飲んでしまうと、次の日気だるくなるようです。そのためちょっとでも体調をよくする為に試合前は1本も飲まないように決めています。
ウォーミングアップについて
ボクサーはウォーミングアップは念入りにするようです。汗を結構かいて休みます。ほとんどの選手は試合前に1回心拍数を大きく上げるようです。
しかし、飯田将成選手は、あまりウォーミングアップはしないとのことです。
2022年にアマチュアベルトを取った時もウォーミングアップはしませんでした。
ウォーミングアップをすると、体が重いため疲れてしまうのかもしれないと自己分析していました。
試合直前に思うこと
入場曲はAK-69の「Flying B」を流しています。
すごく耳に残り、気持ちが上がり、アドレナリンが出るからだそうです。
そして、リングに上がるとスッと落ち着きます。
また、相手選手と対峙した時に、「いけるな」と思うことはなかったようです。
という思考しか頭にないようです。
にっけん君戦では、何が来ても右で合わせようと思っていたとのことです。
11月3日の啓之輔戦でもファーストコンタクトで右パンチを合わせていました。あの形が得意なのかもしれません。
子供の頃の夢と少年時代
飯田将成選手の小さい頃はジャッキー・チェンが好きで、アクションスターになる夢がありました。
そのため、モデルとかタレント業をやったことはありませんが、やってみたいと思ったことはあったそうです。
タバコを吸い始めたのは小学4年生
今でこそ落ち着いている飯田将成選手ですが、子供時代は大変やんちゃだったようです。
幼稚園からたびたび脱走を繰り返していました。
そして、初めてタバコを吸ったのは小学生4年生の時でした。
ちなみに、20歳でボクシングを始めてから、禁煙しているようです。
くだらない喧嘩が多かった
本人は多くは語りませんが、少年時代から喧嘩はよくしていたようです。
飯田将成選手がまだ15歳ぐらいの時に、旅行にいきました。
その時、公衆トイレに入っていると、40歳近いチンピラ風の男がドンドンドンドンと勢いよくドアを叩いてきました。
それに腹を立てた飯田将成選手は
と怒り、その男とトイレを譲る譲らないで揉めました。
飯田将成選手は
と言い、お互い用を足すのを待って、駐車場で喧嘩をしたそうです。
この喧嘩は「用足し事件」と呼ばれているようですが、このようなくだらないことでよく喧嘩になっていたそうです。
暴走族時代
飯田将成選手は、岐阜県の暴走族「鳳龍会」の第6代総長を務めていました。
田舎ということもあり、バイクで走っていたら暴走族に勧誘され、暇でやることもなかったので入ったようです。総長になったのは喧嘩で成り上がったという訳ではなく、繰り上がって自然と総長になったという旨の発言をしています。
暴走族の総長ではありましたが、集団に馴染めずに一人でいることが多かったそうです。
暴走族時代の17、8歳の頃、喧嘩による傷害事件で少年鑑別所に入ったことが1度だけあるようです。
その鑑別所の中で、畑山隆則氏(元WBA世界スーパーフェザー級王者 元WBA世界ライト級王者)の本を読んでいたとのことです。畑山隆則氏が上京して成り上がるストーリーのようです。
また、鑑別所にいるときに、「ボクシングの世界チャンピオンが岐阜でジムを開く」というのを新聞で見たようです。その人に教えてもらいたいと思い、鑑別所を出てからそのジムの門を叩きました。
元々、ボクシングには強い興味があったようです。
武勇伝?
暴走族時代の武勇伝を語っていました。
暴走族同士の50対50の喧嘩があり、飯田将成選手も参加していました。
相手に向かって「お前らやるんか」と威嚇していたようです。
そんなこともありつつ、少し現場を離れていたところ、5対5のタイマンが始まっていることを知ります。
「勝手に始めやがって」と慌てて走って行くと、木の根っこでつまづいてみんなが見ている前でズッコケたようです。
それから1ヶ月ぐらいはずっと恥ずかしかったとのことです。
梵頭と同級生
ブレイキングダウン6で瓜田純士選手と激しく戦ったラッパーの梵頭選手は、飯田将成選手と同郷でした。
しかも、小学校のクラスメイドで、特に小学4年生の頃に一番仲良く遊んだそうです。
何をして遊んだか問われた飯田将成選手は、
と振り返っています。
ちょうど小学生4年の頃から飯田将成選手はタバコを吸い始めており、梵頭選手との悪い遊びと喫煙は関係があるのかもしれません。
そして時は流れ、つい最近になって飯田将成選手は梵頭選手がラッパーになっているのを知ったそうです。
そんな両者はブレイキングダウンで再会し、飯田将成選手が啓之輔選手との対戦直前の入場時に、梵頭選手から声をかけられて、そのまま一緒に入場しました。
入場前の緊迫した雰囲気の中で、飯田将成選手に話しかけるべきかどうか梵頭選手も相当悩んだそうですが、
飯田将成選手は驚きましたが、それで集中力が切れた訳ではなく、
ボクシング時代
少年鑑別所を出た飯田将成選手は、暴走族をやめて、20歳でボクシングを本格的に始めます(中学生の時に1ヶ月だけやって辞め、また1ヶ月だけやって辞める…を3度ほど繰り返しています)。
前述した「ボクシングの世界チャンピオンが岐阜にジムを開く」とは、故・星野敬太郎氏(元WBA世界ミニマム級王者)のことであり、コパン星野敬太郎ボクシングジムに所属することになりました。
これは、教師である親が「フラフラしててもしょうがないから、ボクシングやったらどうだ?」という後押しもあったそうです。
飯田将成選手は鑑別所を出た後に、工場で働きながらボクシングに打ち込むことになります。
ボクシングをやりはじめた動機は、
というのが大きいようです。まずはボクシングのチャンピオンになることで有名になり、それを踏み台にして当時大人気だったK-1へ出場するのが夢でした。
そのジムには星野敬太郎氏しか指導者がおらず、技術はすべて星野氏から教えてもらいました。
星野氏からは「パンチがあるね」と褒められ、数ヶ月後にプロ試験をすすめられます。
ボクシングをやり始めて、謙虚になる
少年時代からやんちゃで喧嘩に明け暮れていたであろう飯田将成選手ですが、格闘技をやり始めて変わったとのことです。
ボクシングを始めて、自分の弱さを知り、努力や継続の重要さを知りました。
いきがってても仕方ないと思うようになり、謙虚になれたと語っています。
しかし、後述する事件でボクシングの無期限停止処分を言い渡されます。
飯田将成選手は「ボクシングを始めてから落ち着いた、と思っていましたが、クビになったから変わってなかったのかもしれません」という旨の発言をしています。
破竹の勢いで日本ランカーになる
ボクシングをやり始めた当初は1kmも走れないほどにスタミナに課題がありました。
しかし、入門して3、4ヶ月でプロテストに合格し、さらに3ヶ月でプロデビュー戦にも勝利しました。
プロテストを含めてデビュー戦から4戦とも1RでのKOだったようです。
そのこともあり、日本ランカーになるのも早かったとのことです。
日本ランカーになったのはボクシングを始めて2年~3年後の23歳の時でした。
ただし、勝利を重ねてラウンド数が増えていくにつれて、スタミナが追いつかなくなり、技術にも差を感じていくようになりました。
看板を蹴り、無期限停止処分
2011年3月13日愛知・名古屋でのウェルター級8回戦が飯田将成選手にとって人生の転機となります。
その試合で、対戦相手の中嶋祐介選手のパンチより、フラッシュダウンしました。
フラッシュダウンなので、すぐに立ちあがったのですが、レフェリーは試合を止めました。
飯田将成選手の3RTKO負けとなりました。
それに納得がいかず、レフェリーを押し退けてしまい、リングを降りた後も椅子を蹴ってしまいました。
そして、一番印象を悪くしたのが、看板(ボード)を蹴ったことです。その看板に貼られてあったポスターは、東日本大震災の義援金を募る広告でした。この日は、震災があったわずか2日後のことだったのです。
飯田将成選手は怒りでポスターを全く見ていませんでした。
結果として、看板を蹴ったことが大きな要因となり、日本ボクシングコミッションから無期限停止処分を受けることになりました。
24歳まで現役でしたが、無期限停止処分があったので最後の1年ほどはジムに行ったり行かなかったり、練習もやったりやらなかったりという状態だったようです。
引用:Wikipedia
上の表は、飯田将成選手のボクシング時代の戦績です。
12戦9勝(7KO)3敗。日本ウェルター級10位のA級ボクサーです。
飯田将成選手本人は、KO率半分と言ってましたが、実際はKO率は78%もあります。試合数で割ると58%ですが、一般的には勝利数で割ります。
夢を捨てきれずにジムを経営する
無期限停止処分を受けて、とても批判されたようです。
レフェリーを突き飛ばしたというニュースにもなりました。
当時の2ちゃんねる等でも批判されていたそうです。
それに関して飯田将成選手は、「自分がやったことなんでしょうがない」と反省しています。
無期限停止処分になった後も、色んなジムを回りましたが相手にされなかったようです。東京にも行きましたが、引き取ってくれるところがありませんでした。
それでも飯田将成選手はボクシングのチャンピオンになる夢を捨てきれませんでした。
自分でジムを開いて、復活できる道があれば探そうと考えついたのでした。
元々、人に教えるのが好きだったこともあり、ジムは11年間以上も続いています。
ジムを経営しながらも、28、9歳まで諦めずにボクシングに出られるチャンスを窺っていました。
しかし、結局その願いは叶いませんでした。
ボクシングコミッショナーとの確執
24歳でボクシングコミッショナーから無期限停止処分を受け、29歳まではボクシング復帰に向けて足掻いていた飯田将成選手。
通例としては、半年から1年ぐらい過ぎれば無期限停止処分が解除されて、ボクシング復帰する選手が多かったそうです。
しかし、飯田将成選手は、すでに6年間を経過しても音沙汰なしでした。
最後の手段として、飯田将成選手はボクシングコミッショナーに直接電話をして直談判を行いました。
という電話でのやり取りがあり、口論になったようです。
この返答でショックを受けた飯田将成選手は吹っ切れました。
無期限停止処分がすぐに解除される選手は、所属ジムが大きかったり、名前が売れていたりなどの条件が必要のようです。
そういうのを引っ括めて嫌気が差した飯田将成選手は、野望を抱きます。
その野望は、
というものでした。
そして悲願叶って有名人となった飯田将成選手は、瓜田純士選手のYouTubeチャンネルにて、初めてボクシングコミッショナーを批判する発言を上記のように行っています。
それを聞いた瓜田純士選手は、
と、飯田将成選手の臥薪嘗胆が報われたことを讃辞していました。
交通事故で大怪我を負う
飯田将成選手は、今から4、5年前に交通事故に遭い、大怪我を負います。31歳ぐらいの時だと思います。
直進してきた車と接触し、ダッシュボードの下に飯田将成選手の膝が当たりました。
その衝撃で膝がベロンとめくれて膝蓋骨が見えました。
意識は完全にありました。
大きい道路で事故をしたので、20mぐらい片脚でケンケンして移動しました。
救急車を呼ばないとダメだと思って、また車までケンケンで戻ってケータイで電話をしたようです。
これが今までで1番痛かったらしいです。
この事故があったため、遊びでタックルを切る練習をした時に、膝に激痛が走ったことがあるそうです。
今は膝の痛みがありませんが、その時の怖さがいまだにあるようです。
『BRIDGE』第2代ヘビー級チャンピオン
ボクシングの無期限停止処分を受けて13年後の36歳。
飯田将成選手は、どうしてもチャンピオンベルトの夢を諦めきれていませんでした。
ボクシングは出場できませんが、キックボクシングならば出場できます。
ということで、独学でキックボクシングを習い、まずはアマチュアのベルトを狙いました。
2022年5月28日、名古屋のアマチュアキックボクシング大会『BRIDGE』に参戦しました。
階級はヘビー級で出場。自分より体重の重い相手(約90kg、180cm後半)と戦いましたが、いずれもKO勝利し、第2代ヘビー級王座を獲得しました。
ちなみに、この試合はキックボクシングの試合ですが、キックは数発しか打っていないと思います。得意のパンチでチャンピオンに輝きました。
ブレイキングダウンの顔へ
『BRIDGE』でチャンピオンになれた飯田将成選手。
しかし、チャンピオンになっても有名になれる訳ではありませんでした。「チャンピオンに一応なれたからいいや」とこれ以上戦う意欲を無くしかけていました。
そんな時に、爆発的に人気を博していたのが「ブレイキングダウン」でした。
飯田将成選手がブレイキングダウンへの出場を決意した動機は単純です。
ボクシングの時と同様「有名になりたかった」からだと語っています。
まだ体が動くうちに完全燃焼したいと思っていました。
一度は落選したブレイキングダウン
しかし、飯田将成選手はブレイキングダウン4のオーディションに一度落選しています。
それでも挫けずに、第5回のブレイキングダウンに再度応募しますが
と思っていたようです。
落選すれば飯田将成選手にとっても、ブレイキングダウンの運営にとっても悲惨だったと思います。受かって良かったです。
ちなみに、朝倉未来に勝ったら1000万円の企画にも応募していますが、それも落選しています。
オーディションは素の自分だった
飯田将成選手は、オーディションを回想して語っています。
歳のこともあり、これがラストチャンスと意気込んでオーディションに参加しました。
しかし、飯田将成選手は煽り合いができませんでした。
周りのみんなのキャラクターが強くて、引いていたようです。
その為、オーディションでは素のままで、普通にしているだけでした。もしふっかけられても、「暴れたりはしなかったと思う」とも言っています。
他はキャラクターが強かった為、受からないと思っていたそうです。
オーディションでは、技術というより、キャラクターを見られていたと感じたようです。
その為、オーディション会場で にっけん君との試合を言い渡されても、「本当に試合できるのかな?」と半信半疑だったと言います。
並々ならぬ闘志で人気を獲得
にっけん君との試合が正式に決まりました。
飯田将成選手は並々ならぬ決意でケージに上がります。
不遇の時代を13年間過ごしてきました。
年齢的にもこのチャンスを逃すわけにはいきません。
「有名になりたい」という悲願を達成する為に、判定で勝っても、ただ勝つだけではダメだと語っています。
派手に勝つか、十何秒という短い秒数で勝たないと注目されないことを飯田将成選手は知っていました。
勝ち方的なプレッシャーがすごくあったと述べています。
派手に勝つには大変なリスクも生じます。
飯田将成選手はこう言っています。
「1分で倒しにいこうとするんで、倒しにいこうとすればするほど被弾しやすくなる。ガードしてジャブすると1分間めちゃくちゃつまらない試合になる。倒しにいこうとすればするほどリスクが上がる。だから素人もプロに勝っちゃうし。それがブレイキングダウンの見どころですね」
初戦にして、ブレイキングダウンの醍醐味を理解しています。
そして、
「倒しにいこうとすればするほど、大ぶりになる。相手からももらいやすくなる。判定で倒せとなると、強い選手にもある程度勝てると思うけど、KOとなるとフルスイングでいくことになる。体重80kg なので一発もらうと危ないと思う。それでも出来るだけフルスイングで戦いたい」
そう語っていました。
この捨て身のフルスイングの戦い方で、強敵にっけん君を圧倒して一躍ブレイキングダウンの顔へと上り詰めるのでした。
有名になって変わったこと
ブレイキングダウンの顔となり、一躍時の人となった飯田将成選手。
ブレイキングダウンに出る前のYouTubeは登録者数200人程度だったらしいですが、今や約38.9万人にまで爆増しています(2023年1月28日時点)。
飯田将成選手は、悲願である有名人になれたことを素直に喜んでいます。
知名度が上がり、東京で撮影すると声をかけられることが増えました。
有名な方とコラボすることができて、今までの生活ではできなかった経験が出来ているようです。
SNS等でも応援コメントが多くて、素直に嬉しいと語っています。
しかし、岐阜の自宅に住んでいると、有名になったという実感は湧かないようです。自宅周辺は田んぼと山しかないため、歩いても誰もいないからだそうです。
ブレイキングダウンが終われば…?
もしブレイキングダウンで飯田将成選手が必要とされなくなったとき、どうするかと問われた飯田将成選手は、
と語っています。
それは格闘技以外のことでも良いので、挑戦をし続けていきたいそうです。
一度しかない人生を平坦に生きて過ごすことを嫌っています。