呂布奉先、ローマを治める <序>

ヲヲクラゲ
こんにちは、漫画原作者のヲヲクラゲです。三国志最強と謳われる呂布りょふが主人公の小説です。

第一話

短い夏に急かされるように植物達は緑の世界を作りはじめている。今年の夏はいつもより暖かい。

村から少し登った丘の上で少年はそんなことを考えていた。

 

切れ長の目に涼しさを持った美しい少年である。向かいの風を受け、後ろで束ねた髪が揺れる様は天の使いのようだ。

しかし簡素な衣服の隙間から見える筋肉は鋼を束ねたように隆起していた。しなやかな体つきは野生の獣を連想させる。

美なのか野なのか、正なのか邪なのか、少年自身ですらまだ決めかねているようだった。

 

視線の先に少年は自分の村を見ている。

若々しい緑の中、村だけがくっきりと浮き上がっている。暖かさのせいか時間がゆっくり流れているようだった。

少年はこの場所からの眺めがどの景色より一番好きだった。村の中で小さく動く人々、立ち上る炊飯の煙、遠くに聞こえる村人の声。その全てが少年の心を満たした。

長い間少年は飽きるふうでもなくその景色を眺めていた。

 

はくにいちゃん」

ふいに後ろから声がした。はくと呼ばれた少年は優しく振り返った。

美しい少女が夏の陽光に髪を溶かしながら笑っている。

季蝉きせんか…また後をつけてきたな」眩しい少女の姿に目を細めながら伯は笑った。

「そろそろ帰ろうよぅ」

甘えるように季蝉きせんはくの目を見て言った。伯は無言でうなずき、季蝉を抱き上げると丘を降りはじめた。陽はとうに南天を過ぎていた。

 

家の前までくると伯は大事な宝物を扱うようにそっと季蝉きせんを降ろした。

「ありがとう!また後で遊ぼうね。」そう言うと季蝉は元気よく走りだした。季蝉の姿が見えなくなるのを確かめて伯は家に入らず中庭へ回った。

雲が出てきたせいか日差しは弱くなってきている。そのせいか伯の顔が少し厳しくなったようだった。

 

中庭の端には静かに男が立っていた。

気付いた伯が軽く目配せすると男は傍らに置いてあった木剣を投げてよこした。

「遅刻です。はく様」無愛想でどこか怒ったような声だ。

だが彼がそんなことで怒る人間でないことを伯は長い付き合いで知っている。

「すまないラクレス。季蝉きせんがせがんでな、丘へ行っていた」

「逆でしょう」ラクレスと呼ばれた男は短く言い返した。

「季蝉が稽古に間に合うようお前を連れてきてくれたのだろう。」しわがれた太い声。いつの間にか父まで中庭を眺んでいた。

「どうも皆季蝉きせんの味方だな」はくは苦笑いとともに投げられた木剣を構え男をみる。

 

この国の人間ではない。

浅黒い肌に緑がかった瞳、皺の刻まれた顔、髪はひどい癖毛。体躯たいくはそれほど大きくはないが引き締まっている。

ラクレスという名前は他の国ではありふれた名前なのだろうか。手にはすでに伯と同じ木剣が握られている。

ラクレスの緑色の瞳が深さを増した。

 

 

第二話

じとり、と場が特別な空気に変わっていく。

二人が履く羊革ひつじかわをなめして作った靴はまるで動いていない。

 

しかし少しずつ2人の剣気は大きく、鋭くなり相手に向かっていく。

この微妙な 空間の歪み。武に暗い者には分かるまい。はくは思う。大きな剣気の波は周りの物の質、量をも変える。

ラクレスの剣気は一定ではない。

寄せては返す波のようである。こちらが行こうと思えば退き、逆に退こうと思えば来る。

決して相手の剣気と交わろうとはしない。その境目ぎりぎりの所で伯もまた機を伺っている。

剣気の進退に合わせ、ラクレスの存在は大きくも小さくもなる。

これを感じられない者であれば、ラクレスに一呼吸の間に打ち倒されているだろう。

 

今うちこめば十中十かわされる。

故に撃たない。

今うちこめば良くて相打ち。

故に動かない。

今うちこめばどうなるか。

故に動けない。

 

逡巡するはくをからかうように、ラクレスから発せられる剣気が突然消えた。

頭で考える前に体が勝手に反応する。

重心を前に落とし滑るようにラクレスに踏み込む。

瞬間。ラクレスの姿は陽炎かげろうのようにゆらぎ、消えた。

足首の動きだけで伯の左方へ飛んでいる。50を過ぎたと聞く男の動きではない。

 

完全に間合いを外された伯は、しかしその動きに付き合うことはしなかった。

ラクレスの側面からの打ち込みを前を向いたまま弾き返す。

乾いた音が鳴るのと同時にラクレスは二度目の跳躍を行い完全に伯の後方に出た。

剣を弾き返された反動を利用した恐るべき体捌きである。無防備な後頭部に向けラクレスは竹を割るように剣を振り下ろす。

その剣が頭部を捉えたと見えた瞬間、伯は右足を軸に反転していた。

 

ラクレスの剣は軸をずらしたはくの頭髪をかすめ、交差するように振られた伯の剣先がラクレスの額の上でぴたりと止められた。

「お見事です。伯様」やはり怒ったようにラクレスは言った。

 

 

第三話

その言葉には答えずはくは無言で剣を引き呼吸を整えた。

首筋には汗がうかび、顔は少し照れたように紅潮しラクレスを見ている。

 

正直ラクレスは驚いていた。

2ヶ月程前からはくの動きに無駄が消え、静から動への移行に鋭さが増した。

常人ならもはや束になってもかなうまい。

だがそれでも自分が打ち負かされるのは数年は先であろう。そう思っていた。

しかし少年の才能はどうやらラクレスが計れる器を超えていたようだ。

すでに剣身一体となりつつあり、底知れぬ武の才を放ちはじめている。

呂大夫りょたいふとの約束の時が来たようである。

 

少年は男になる時が来たのだ。

ラクレスは西日をまとった美しい少年を見ながらそう思った。

 

 

第四話

辺りはすでに夕暮れの色に包まれつつある。

 

ふいに。「はくよ」と、父は静かに声をかけた。

呼ばれて伯は向き直る。

父の目は伯の顔をじっと見ていた。

沈む夕日の斜光が眉間の皺をさらに深いものにしている。

「剣では常に勝るか」短く父は問うた。

「…」

はくは答えない。確かに剣において、というよりも剣においてのみ自分はラクレスより技量が上達したのであろう。

しかしそれとて木剣ぼっけんでの話だ。真剣になれば、また別である。

そのうえ、槍、弓、馬上においての全ての動作で自分はラクレスの足下にも及ばない。

何よりも自分に剣の振り方を教えてくれたのはラクレスである。

 

呂大夫りょたいふ様」木剣を地に置き拝礼しながら答えたのはラクレスだった。

はく様の剣は常にそれより勝ります」

 

呂大夫りょたいふはしばらくの間をおいて伯に言った。

「精進したようだな」

伯はその言葉に微かな悲しみの響きがあるのを感じた。怒るにしても褒めるにしても豪快な人である。いつもとは違う父の物言いが気になった。

呂大夫はそれだけ言うと中庭から立ち去ろうときびすを返した。

「父上」

なぜかはくは無性に不安になり呼び止めた。振り向いた呂大夫は「一週間後、わしの部屋に来い」とだけ言った。

 

 

第五話

父の言うその日まで、はく季蝉きせんを伴い、毎日丘にのぼり村を見た。

稽古をし、時間があればまた季蝉きせんを連れ、村の人々と話して回った。

はくが来ると村人は仕事の手を休め笑顔で世間話をする。

みな伯と季蝉が好きであった。そして伯と季蝉もまたこの村全てを愛していた。皆家族だ。

早く大人になってこの村を父のように守っていきたい。

それがはくの夢であり生きる理由だった。

 

父は何か大事なことを自分に伝えようとしている、良いことなのか悪いことなのかは分からなかったがそれだけは間違いないと伯は思っている。

なぜか気がいた。今村を見ておかないと、もう見ることができないような気がする。

父がかすかに見せた悲しみの感情は言葉にせずともはくの心にしみ、臓を濡らした。

 

 

第六話

村を回るはくの足取りは日に日に早くなっていた。

6日目の朝、伯と季蝉きせんはいつものように丘の上に登りはじめた。

はくにいちゃん…なんかこのごろ元気ないよぅ」

季蝉が言う。

朝の清浄な空気が季蝉きせんから香る芳香と合わさる。

 

「そう…見えるか?」その芳香に別世界に迷い込んだような錯覚を受けながらはくは応えた。

「うん…」季蝉は曖昧にうなずき黙ってしまった。

どうして?とは季蝉は聞かない。

おそらく季蝉きせんは伯と呂大夫りょたいふとの間に何かあったことを感じているのだろう。

だから季蝉は問おうとしない、そこに伯は季蝉の聡明そうめいさと優しい心を見るのだった。

 

押し黙ったまま2人は丘を登りきった。

季蝉が伯の袖を引く。

その動作に気づかされるまでもなく伯は丘上に先客の存在を認めていた。

 

 

第七話

丘の上でははくがそうするように少年が村を見下ろしていた。

後ろから近づいてくる2人の足音を聞いても少年は振り返らない。

はく季蝉きせんは何も言わず少年の横に並び村を眺めた。

いつもと変わらない平和な景色だった。まだ朝早いせいか村に見える人影はまばらである。

しばらくの時が経った。

だが少年はやはり面白くもなさそうに村を見ている。

敏捷びんしょうそうな体つきである。年は10を超えたばかりだろう。

背ははくよりも頭一つ低い。

細くきつい目をした横顔は若々しいたかを思わせる。髪は伯と同じように後ろで束ねていた。

可比能かひのうよ」

伯は少年の名を呼んだ。

はくにい」

やっと少年は口をひらくと伯の方を向いた。

 

 

第八話

かすれて大人びた声だ。心なしか声が沈んでいる。

「めずらしいな、お前が丘に登るのは」

「…はくにいに聞きたいことがあって待ってたんだ」

少し答えに迷ってからそう言うと可比能はちらりと季蝉きせんの方を見た。

その視線の意味に気づいた伯は、優しく季蝉の頭を撫でてやり「季蝉、少し散歩しておいで」と小さな声で言った。

季蝉きせんは笑顔で頷くと、すぐに丘の反対に向かって歩きはじめた。

「賢いな…季蝉は」

可比能は季蝉きせんの歩いて行くほうを見ながら言った。

その言葉にはくは微笑で答えると少し真剣な顔で可比能かひのうを見た。

 

「ラクレスが旅支度か?」

伯は突然に問うた。

可比能かひのうは目を見開き驚きを表した。

「知ってたのか?」

「知らぬよ、そんな気がしただけだ」

はく可比能かひのうから目をそらし村に目を向ける。

村は眠りから覚めたように朝の生活を営みはじめていた。

 

 

第九話

「親父がな…昨日の夜、旅支度をはじめたんだ」

視線をそらしたはくにかまわず可比能かひのうは語りはじめた。

「驚いたよ、急だったからな。親父は良く旅には出るが必ず行き先も帰る日も前もって言うんだ。」

「それが昨日は違っていたのか?」

はくの言葉に可比能かひのうが頷く。

 

「大違いさ。いくら聞いても大雑把なことしか言わねえ。まるで謎掛けだよ」

強くなってきた風音に消されぬよう、かすれた声を強めて可比能かひのうは続けた。

 

今回の旅は長くなること、方角は北であるらしいこと、可比能かひのうも付いて行きたいと言ったが拒否されたこと、いつになくラクレスの表情が険しかったこと。

はくは目を閉じ、時々話に相づちをうつ。

可比能かひのうは乳飲み子の時にラクレスが養子としてもらい受けたと聞く。

 

村の中で流れる噂ではこの中華の外にいる部族の生まれらしい。どういう経緯でそうなったかは伯も知らない。

ただ伯と可比能は幼少の頃から共に山を駆け、川で魚をとり、悪さをしてはラクレスに叱られた仲である。

伯にはそれで十分だった。

だが、はくはそうであっても可比能かひのうがそうだとは限らない。

「いつか俺を捨てた奴らを見返してやりたい」

そういう思いを可比能から感じるときがある。

もしかしたら明日父から伝えられる何かは可比能の出自にも関わるものなのかも知れない。

だからラクレスは可比能の同行を拒んだのか。それとも命の危険がある旅だからなのか。あるいはその両方。

可比能かひのうが語るにまかせはくは思考の泉に沈んでいった。

 

 

第十話

「でな、はくにい、結局親父は肝心のどこへ行くかは教えてくれなかったんだ」

可比能かひのうは一気にしゃべり終えると最後にそう言った。

可比能かひのうの話が終わると、はくはゆっくりと目を開けた。

脳裏には一つの結論が導き出されていた。

「わかったぞ、可比能かひのう

「何がだよ?」細い目を丸くして可比能かひのうは聞いた。

「お前の聞きたかったことさ」

はくは村から空に目線を移した。風に雨の匂いが混じりはじめた。

「行き先はな、恐らく檀石槐だんせきかいがいる鮮卑せんぴだ」

 

鮮卑せんぴ…」可比能かひのうはその名前を聞いて顔色を変えた。

北に見える黒い雲を見すえ、はくはまだ見ぬ草原の支配者達に想像をめぐらした。

 

 

第十一話

整然とした部屋だった。

ふしくれ立つ黒木くろきの机が尺を用いて測られたように中央に鎮座している。

掃除は隅々まで行き届いているが潔癖な印象は受けない。

武骨さが形になったような部屋だった。

 

だが今日はその調和に挑戦するように大きな薙刀なぎなたが戸口の壁に立て掛けられている。

柄の部分は血痕が染み付き黒みを帯びていた。

 

部屋の主人はむっつりと座っているが怒っているわけではない。

緑色の目は向かいに胡座あぐらをかく男を映している。

ラクレスが珍しく客人を相手にしているのだった。

 

「雨がきそうですな」ラクレスは言いながら久しぶりに会う友を見る。

いにしえの物語に登場する鬼獣のような男である。

ぶ厚い体をしている。胸板、腕、太腿、手のひら、そして首にいたるまで鎧のようにぶ厚い。

伸ばすに任せた髪と髭、彫りの深い顔立ちは昼間でさえ眼堝に影を残している。

歳は三十の半ば、男盛りである。熱い。男の体を造る細胞の一つ一つが沸騰しているのかもしれない。

同じ部屋にいるだけでラクレスの額には汗がにじむ。

 

「雨ですか…どうでしょうな」

曖昧に答えると男は目を閉じた。存外に優しい声である。

男が一刻ほど前に尋ねてきてからの会話はほとんどこの調子である。

 

ラクレスは立て掛けてある薙刀をちらりと見た。

刃先が象の鼻のように反り返って巻かれている。重さは恐らく200きん(約50kg)をくだるまい。

切るのではなく叩き割るための武器だ。

男はこの象鼻刀ぞうびとうを小枝のように振り回しながら、もう一つの武器を自在に使う。

それはすでに神技の域にあるとラクレスは思っている。

 

 

第十二話

「長旅になるのですかな?」男が問う。

「恐らくは」ラクレスは簡潔に答えた。

 

短い言葉のやり取りの中、ラクレスは男の剣気が微妙に揺らぐのを感じた。

だがその揺らぎが何を意味するのかは分からない。

「見えませぬか。また弱くなりましたな…ラクレス殿」

そう言うと男は残念そうに髭をさすった。

何が見えぬのか問おうとしてラクレスは止めた。ラクレスが老いたのではない、男がもはや届かぬ所まで昇ったのであろう。

 

「邪魔したようです。旅の武運を祈ります」男は目を開け腰をあげた。

戸口までラクレスが送ると、薙刀なぎなたを手にとり振り返った男は思い出したように問うた。

呂大夫りょたいふせがれを鍛えているのか」

突然の言葉にラクレスは真意を計りかねた。

口調が変化している。魂をきしませるような声である。

男の風貌と言葉がやっとかみ合ったようにも見える。

 

「今は近傍の丘に登っております」用心しながら答える。

「そやつはつよくなりそうか?」

ラクレスは間を置き、しかしはっきりと言った。

「…はく様は天才です。百年に1人の者となるでしょうな」

わしの相手ができる程度にか」

男の目は鬼の目であった。

 

「残念ながら」とラクレスは首を横に振った。

人が鬼獣に勝てるのは物語の中だけだ。

はくがこの鬼獣に勝てるとするならばその時すでに伯も人ではなかろう。

ラクレスははくにそういう道を歩いてほしくはなかった。その時部屋で異様な音が響き机が真っ二つに割れた。

ラクレスは部屋での言葉に得心とくしんし、目の前の男に深々と別れの作法をとった。

 

 

第十三話

7日目の朝がきた。

昨夜から降りだした雨は空が明るくなる頃には上がっていた。

 

はくは昼まで自室にこもり、丘で可比能かひのうから聞いたことを思案していた。

昼食をとると1人で稽古をし、夕陽が沈むのを待って父の部屋へ向かった。

部屋の前に立つとはくは一度深く息を吸い、名を告げ戸を開けた。

 

部屋の中はすでにがともされ呂大夫りょたいふとラクレスが胡座あぐらをかいていた。

ちらちらと揺れる燭の灯りが2人の顔に濃い陰影をつけている。

 

「座れ、よ。長くなる」

呂大夫は右手に杯を持ちいつもと変わらぬ声でそう言った。ヒヤリとする。

 

呂大夫りょたいふは今、はくの名を呼んだ。

姓はりょ、名は。それが伯の本名である。

 

はく」とは長男、お兄ちゃんという意味であり言わばあだ名ということになる。

中華では古来より人を名で呼ぶのは、目上の者以外では非常に失礼なこととされている。

つまり今日の話は家長として村長としての公的な話ということか。

呂布はいずまいを正して次の言葉を待った。

 

 

第十四話

可比能かひのうから旅の話を聞いたそうだな」

呂大夫りょたいふは酒瓶をラクレスに差し出しながら聞いた。

「…はい」

小さな声でそう答えて呂布りょふはラクレスを見た。

 

やはり自分は旅に出されるのだ。

ほとんど確信に近い予想であり、覚悟はできていたつもりであった。

だからこそ呂布は自分の中からあふれてくる寂寥感せきりょうかんに戸惑いを隠せなかった。

 

「愚息がつまらないことを申しました」

杯になみなみと注がれた酒を置くとラクレスは呂大夫に向かい頭を下げた。

呂大夫は軽く笑いながらそれを制し呂布に問う。

「さて勘の良いお前のことだ、わしがお前を何処へ送りだすか見当がついておろう」

 

檀石槐だんせきかい  大人国たいじんこくだと愚考いたしました」

少し身を乗り出した呂大夫をまっすぐに見ながら呂布は即答した。

 

 

第十五話

檀石槐だんせきかい

一代で分裂していた鮮卑せんぴ族を集束し、モンゴル平原をたいらげて檀石槐だんせきかい 王朝を建てた男である。

永い間モンゴル平原を母地とし、漢帝国を震えあがらせてきた匈奴きょうど族でさえこの英雄の出現により南方へと押し込められている。

この時代、鮮卑せんぴはアジアでも最強の騎馬民族であった。

 

「ふむ」

息子の慧知けいちに満足そうに呂大夫りょたいふは頷いた。そのままラクレスに向かって右手を差し伸べる。

ラクレスは懐中から取り出した真新しい巻紙を呂大夫に手渡した。

「これが何かわかるか」

 

紙を呂布りょふに見えるよう床に広げながら呂大夫りょたいふが言う。

「こ、これは…」

呂布はその紙を見て絶句した。

 

紙の内容を表現する言葉が見つからない。

世に生きる人々の大半がいまだ持ち得ない概念をその紙は持っていた。

 

「それが、世界よ」

 

呂大夫はさとすようにそう言った。

 

 

第十六話

「世界…ですか」

呂布りょふは紙から目をそらすことができない。

「人づてに聞いたものがほとんどですが、中には私が訪れた国もございます」

ラクレスが言う。

それはユーラシア大陸のほとんどと、北アフリカの一部が描かれた世界地図だった。

 

呂布の住む漢帝国かんていこくを右下に置きそこから出た道が中央にある砂利のような小国の群れを通り、地図の左側ほとんどを占める大国に続いている。他にも数多あまたの国々や部族名が色を変えた筆で書かれている。

「世界とは…中華の外のことなのですか」

「そうではない…中華もまた世界の一部なのだ」

呂布の目は完全に少年に戻っていた。

ラクレスは呂布の顔を見て目を細めた。その瞳には安堵あんどと優しがあった。

 

 

第十七話

「この西の果てにある大国の名はなんと言うのですか」

大秦国たいしんこくという。安敦あんとんという王が治めておるときく」

 

「この地図の外側はどうなっているのですか」

「まだ分からぬ。だが地図の外側にもまた違う国々があるのだろう」

呂布りょふの疑問は尽きない。

その一つ一つに呂大夫りょたいふは答え続ける。

質問が一息つき、短い沈黙の後呂布はすねた子供のように言った。

「しかし、なんと…なんと我が国は小さいのだろう…」

 

漢帝国かんていこくは周り全ての国の盟主であり、中華こそ世の中心である。

当然のことではなかったのか。

だが見よこの地図を。

世界というものの中では漢帝国ですら右下の一隅しか与えられぬのだ。

 

「そのかんがな、さらに小さく割れようとしておる」

呂大夫の言葉に呂布は夢から覚めたように顔をあげた。

 

 

第十八話

かんが…割れる…」

 

呂布りょふはその言葉を反芻はんすうした。

恐ろしい言葉だった。

 

途中に多少のいざこざはあったとしても漢帝国は四百年という永い間続いてきた国だ。

中華の民、少なくともこの村に住む者達にとっては漢帝国の存続は太陽が東から昇ることに等しい。

四百年という時間は容易にそんな幻想を人々に抱かせる。

 

「それはかんではなくなるということですか」

父は根拠もなく物事を言う人ではない。

父がそう言うのであれば真実漢は割れようとしているのであろう。

信じられぬ事ではあるが呂布の思考は冷静である。

漢は割れるという。

 

ということは割れた後につ国があるということだ。

それは百五十年年前の光武帝こうぶていの時、つまり現在でいう前漢ぜんかん後漢ごかんの時のように、やはり漢という国に再びつながるものなのか、それとも全く違う国が建つということか。

呂布が聞きたいのはそこであった。

 

 

第十九話

呂大夫りょたいふはにやりと笑い「馬鹿者め」と言った後、杯を仰ぐようにして空にした。

顔を戻した呂大夫の顔からは笑みが消えている。

「よいかよ、漢は割れる。一年後か五年後かそれは儂にもわからぬ。だが漢帝国を積み木の山とするなら、土台となる木はもはや朽ち果てておる。あと一押で山は崩れる。多くの血が流れるであろうな…。そしてその崩れた山を元に戻すか、新しい山を築くか…それは」

呂布りょふの鼓動が早くなる。

呂大夫はいったん言葉を切ると目を閉じて言った。

 

「お前達次第だ」

 

情味のある叱責を受けた呂布りょふは素直に自分の言葉の過ちを認め、同時に腹下に火を放たれたような熱さを覚えた。

自分は将来父の後を継ぎ村を治め、守ってゆくものだと思っていた。

いや、これからも勿論そのつもりだ。

 

だが、父は言った。

世は乱れそれを変えていくのは自分達の仕事だと。

呂布は争いが好きではない、できる限り平和に暮らしたいと思っていた。

 

しかし体の中から溢れだすものは全く別だった。

自分は心のどこかで乱世を望んでいたのか。

戸惑いを隠すように呂布は話の核心についてさらに問うた。

 

 

第二十話

「そのかんの乱れに鮮卑せんぴの介入する余地があるということですね」

 

「この村は漢領の北端、匈奴きょうどとの国境に位置しておる。そして匈奴の北は全て鮮卑せんぴのものだ。もし漢の内乱に鮮卑が介入する気であれば、この村も戦火にさらされる。村の行く末を決める大事な内偵だ。よ、お前にできるか」

呂大夫りょたいふは一気にそう伝えると呂布りょふの答えを待った。

すでに呂布は冷静さを取り戻し呂大夫の目をまっすぐに見返している。

 

難しい内偵である。

道程にある匈奴きょうどの領内も、今は漢に服属しているとはいえ安心ではあるまい。

鮮卑せんぴ領内に入れたとしても困難は続く。

戦支度でもしていれば鮮卑が次に狙う地も容易にわかろう。

だが呂布が調べることは遠くない未来漢に何か異変が起こった時、鮮卑せんぴが軍事介入してくるかどうか、ということである。

それはつまり、檀石槐だんせきかい自身に聞くしかなかろう。並の者ならば達成は必死の任務である。

だからこそ呂大夫はラクレスと呂布を選んだのだ。その期待に応えぬわけにはいくまい。

しかし、それとは別に呂布りょふには気になることがあった。

 

そのわずかな逡巡しゅんじゅんの間に髪を入れず奥の間から怒鳴り声が聞こえた。

はくにぃにできねえことなんかねえよ!」

 

 

第二十一話

どん、と奥間の戸板が勢いよく開き二つの人影が現れた。

「隠れて聞いてりゃあ俺だけ除け者にしやがって!」先頭の人影がまくし立てる。

「隠れていたつもりかこの馬鹿者が!」

いつにもまして不機嫌そうな顔でラクレスは叱責した。

紙燭しそくの明りでもはっきりとわかる。

人影は可比能かひのう季蝉きせんだった。

ラクレスが言うように呂布りょふは部屋に入ったときから奥の間に息をひそめた珍客の存在を認めていた。

ただ呂大夫りょたいふとラクレスが気付いていないわけもなく放っておいたのだ。

 

呂大夫を見るとおかしそうに二人のやりとりを肴に酒を飲みはじめている。

可比能かひのうの表情は心底悔しがっているようだった。

身振りも交えてラクレスに喰ってかかる。

可比能の後ろに控えた季蝉きせんの落ち着いた表情とは対象的である。

 

「やい、くそ親父!俺も連れていけ!」

「だめだ」

「なんでだよ!」

「死ぬからだ」

「死なねえよ!子供扱いしやがって!つれてけ!」

「だめだ」

「死んでもかまわねぇ!」

「足手まといだ」

堂々巡りである。

「呂大夫様の前だぞ、わきまえんか!隠れて話を聞くことを暗に許されただけでも有り難く思え!」

「嫌だね!だいたい…」

その言葉が終わらぬうちにラクレスの拳が可比能かひのうの頬をとらえた。

派手な音が室内に響き可比能は元いた奥の間まで文字通り飛んでいった。

 

「我が息子ながらものというに他なりません…お許しを…」

深々とラクレスは呂大夫りょたいふに頭をさげた。

奥の暗闇から弱々しい可比能かひのうの声が聞こえる。言葉の最後は涙声に変わっていた。

「ちきしょう…なんで連れてってくれねえんだよ…俺が…鮮卑せんぴに捨てられた子供だからかよ」

 

 

第二十二話

呂布りょふ は可比能かひのうから発せられた「鮮卑せんぴ」という言葉がラクレスの怒気をすっと引かせていくのを感じた。

「知っておったのか…」

ラクレスが低く可比能かひのうに問い掛ける。

「あぁ…」

涙を目に溜めたまま可比能かひのうは起き上がり、ラクレスの正面まできて座った。片頬は赤く腫れている。

 

場はしばらくの沈黙に包まれた。

 

 

「子の成長とは早いものだな、ラクレス。それとも…英血とはこういうものか」

沈黙は呂大夫りょたいふによって破られた。

ラクレスは答えない。

 

「のぅ…ラクレス、行かせてやるわけにはいかんか」

 

呂布は大気の震えを通してはっきりとラクレスの動揺を感じた。

 

「しかし」

 

「死ぬのは心ということか」

「…」

ラクレスは黙っている。

「いつかは乗り越えなければならぬもの。息子かわいさゆえ逃げ切れるわけではないぞ」呂大夫は少し考え、言葉を繋げた。

「あと半年と言われた」

 

 

第二十三話

ラクレスの両目がいっぱいに開き、呂大夫りょたいふを見つめた。

 

呂布りょふには二人の会話の意味が分からない。

可比能かひのう季蝉きせんも黙ってやりとりが終わるのを待っている。

 

「わかりました…呂大夫様…」ラクレスは半ば放心したようにそう答えた。

 

可比能かひのうはその瞬間、体を変え呂大夫に拝礼し言った。

「ありがとうございます呂大夫様。未熟者ではございますがこの大任の一助となるべく砕身の努力を惜しまないつもりです」

もういつものかすれて大人びた声に変わっている。

だが目の輝きだけは嬉しさをかくせていない。

 

呂大夫はその言葉に頷くと大事な話があると言い、ラクレスと可比能かひのうに下がるよう促した。

ラクレスは我に返ったように顔をあげ、残りたがる可比能かひのうをつまみあげて部屋から退出した。

あとには呂布と季蝉きせんが残った。

 

 

第二十四話

呂大夫りょたいふはまた杯をあおり、一息つくと呂布りょふを見据えた。

「さてよお前に言わなければならぬことがある」

紙燭しそくの明りが呂大夫を照らす。表情は険しい。

呂布は姿勢を正した。

 

「手短に言うぞ。一つ、鮮卑せんぴから帰ってもお前は村に入ってはならぬ。二つ、そのまま中華を知る旅に出よ。三つ、二年経ったら戻ってこい」

 

呂布は突然の言葉に声が出ない。

横にいる季蝉きせんが息を飲む。

「そして…季蝉よ、帰ってきたらと結ばれてやってくれんか」

 

「父上!」たまらずに呂布は声をあげた。

わし季蝉きせんに聞いておる」

ピシャリとね付けられた。

「どうかな季蝉」

念ずるように呂大夫はもう一度聞いた。

季蝉は驚いたが取り乱してはいなかった。腹の座った娘である。

「呂大夫様。わたくしの気持ちは問題ではございません。それよりもはく様の気持ちが知りとうございます」

やや頬が上気しているが冷静に季蝉きせんは言った。

いつもの伯に甘える口調ではない。

 

「父上…理由を…」

 

呂布の言葉を重ね消すように呂大夫は畳み掛ける。

 

「季蝉はこう申しておる。お前はどうなのだ」

 

違う、そうではない。

呂布は二年の旅に出される理由を聞きたいのだ。

季蝉との婚儀は…それは嬉しくないといえば嘘になる。むしろ…いや違う。そうではない。次第に顔が熱くなっていくのがわかる。

季蝉きせんを横目で見る。橙色の中で凛とする季蝉の顔は人間とは思えない程に美しい。

いつの間にか鼓動まで早くなっている。

つまり動揺しているのだ俺は。多少自嘲気味に自分を見つめて呂布は思った。

 

 

第二十五話

そして数瞬をおいて呂布りょふの口から漏れた言葉は

 

季蝉きせんを妻にめとりとうございます」だった。

 

場の空気が弛緩していくのが肌で感じられた。

 

いささか強引な婚約だったが息子とその将来の妻を前にして呂大夫りょたいふは満足げに頷いた。

そして表情を柔らげると呂布に言った。

 

「これで呂家も安泰だな。よ、問うな。一人前と認めた男はすぐに旅にださせる。どんなことがあろうとな。これは代々の家訓なのだ。井の中のかわずは大海を知らねばならぬ」

 

「ですが父上、その句の後には『されど天の高さを知る』と続くとも言います」

 

いつもの呂布であれば呂大夫の言葉に違和感を感じたはずである。

だがこの時の呂布は、動揺を隠そうと慣れない皮肉を言うことで精一杯だった。

 

「ふん。平和な時代はそれでも良かろう。だがこれからの乱世で周りが見えぬ者など取って喰われるだけぞ」

 

そう一蹴すると呂大夫は立ち上がり背を向けた。

 

 

第二十六話

父の背中が寝室に消えるまで見送り、呂布りょふ季蝉きせんは灯りを消し外に出た。

後に内モンゴルと呼ばれる地方に位置する村は、夏とはいえ夜間には肌寒さを感じさせる。

そっと季蝉の肩に手をまわした呂布の手に、微かな震えが伝わってくる。寒さのせいだけではあるまい。

季蝉きせんを家まで送り家人に挨拶をする。

 

事前に婚礼のことは知らされていたのか家人の態度は穏やかなものだった。

季蝉には親と呼べる者がいない。

ある日突然呂大夫りょたいふが村に連れてきて以来、村全体の子供として育てられた。

どうして可比能かひのうのように養子として村の一員にしなかったかは、呂布にはわからない。

今目の前にいる家人も月回りで季蝉を養育している一人にすぎない。

 

季蝉は自分の境遇について嘆いたことも喜んだこともなかった。

受け入れる力のようなものが生まれつき備わっていたのかもしれない。

季蝉きせんと別れるとき呂布は何か言わなければ、と思ってやめた。

頭の中にもやがかかっているようだった。

 

 

序・完

呂布りょふの足は自然と丘を目指していた。

熱を持った頬を程よい冷気がなでる。

 

山頂につく頃には呂布の思考は落ち着きを取り戻していた。

呂大夫から感じられた悲しみは、単に子供を旅にださなければいけない親心から出たのか、可比能かひのうとラクレスに言った不可解な言葉は何なのか。

頭の中の靄は晴れはしなかったが呂布は覚悟を決めた。

 

鮮卑せんぴに行く。

そして中華を旅する。

戻ってきて季蝉きせんを娶る。

危険に満ちているが単純な経路だ。

行動しながら考えるのが自分の性に合っている。

 

頭上の北斗の星を巨門から貪狼どんろうになぞり北極星を探しあてる。

その先に鮮卑せんぴがいるはずである。

 

「まずは北だ」

 

小さく吠えた若者の声は村に届くことなく闇に吸い込まれた。

 

 

序・完

 

 

ヲヲクラゲ
第1章、始まりました。