2021年8月9日にリニューアルグランドオープンした、徳島県立博物館常設展示室。
リニューアル当日の夕方のニュースを見ていると、リニューアルしたばかりの博物館の映像が流れており、とても楽しそうだったので、後日行って来ました。
ということで、この記事では文化の森総合公園の県立博物館・常設展について説明していきます。興味を持たれた方は是非一度、体験してみると面白いかもしれません。
徳島県立博物館常設展示室とは
徳島県立博物館常設展示室の概要を、広告チラシからご紹介します。
徳島ってどんなところ?
常設展では、「徳島まるづかみ!‐“いのち” と “とき” のモノ語り‐」をテーマに、豊富な資料や映像コンテンツを用いて、徳島の自然と歴史・文化を総合的に紹介しています。
あなたも、徳島の魅力や特色を“まるづかみ”してください。
- 訪れた利用者が、いつでも徳島県域の自然、歴史・文化を俯瞰し、「徳島らしさ」を実感できる展示
- 自然系・人文系をあわせ持つ総合博物館として、実物資料(モノ)をもとに「いのち」と「とき」を感じることができる展示
- 他地域との関係、地球規模の視野から、徳島の特色がいっそう理解できる展示となっています。
利用案内・観覧料・アクセス
開館時間・休館日
開館時間:午前9時30分~午後5時
休館日:毎週月曜日(祝日または振替休日のときはその翌日)。年末年始(12月29日~1月4日)。※展示替えなど、必要に応じて休館することがあります。
常設展観覧料
常設展観覧料(個人):一般400円。高校・大学生200円。小・中学生100円。
常設展観覧料(団体20名以上):一般320円。高校・大学生160円。小・中学生80円。
※祝日・振替休日の観覧料は無料です。
※学校教育での利用および土曜・日曜・祝日・長期休業日の高校生以下の観覧料は無料です。
※身体障がい者手帳、療育手帳、精神障がい者保健福祉手帳をお持ちの方及びその介助の方1名の観覧料は無料です(証明できるものをご提示ください)。
※高齢者(65歳以上)の方は無料です(証明できるものをご提示ください)。
※企画展(常設展ではない展示)観覧料は、別に定めます。ご不明の点は、受付までお尋ねください。
無料で観覧できる場合がいくつかありますので、該当される方は無料で入場しましょう。
アクセス
住所:770-8070 徳島県徳島市八万町向寺山 文化の森総合公園 徳島県立博物館
TEL:088-668-3636
FAX:088-668-7197
徳島駅から:バス…約25分。タクシー…約15分。
文化の森駅から:徒歩…約35分。
徳島自動車道「徳島I.C」から:車…約20分。
※無料駐車場があります。
実際に行って見て
駐車場は9割以上埋まっていました。お盆休みと夏休み、そして雨も相まってか、室内でゆったり時間を過ごせ、教養も身に着けられる博物館は、子ども連れのご家族で賑わっていました。
噴水のある広場のすぐ西側には、徳島県立図書館があります。癒されによく行きます。
広場のすぐ南側には三館棟があります。1階は主に県立21世紀館。2階が県立博物館、鳥居記念館、近代美術館となっています。
2階に上がると、博物館があります。受付の手前で、非接触型の検温器で体温を測り、手指消毒も行います。コロナ対策が念入りに行われています。チケットは券売機で購入し、受付に渡します。
常設展観覧料(個人):一般400円。高校・大学生200円。小・中学生100円。
常設展観覧料(団体20名以上):一般320円。高校・大学生160円。小・中学生80円。
博物館のあゆみ
博物館の歴史を簡単にご紹介。
- 1959年12月 旧博物館(徳島県博物館)設置及び開館
- 1989年4月 旧博物館展示室閉室
- 1990年3月 旧博物館閉鎖
- 1990年11月 文化の森総合公園開園、博物館開館
- 1993年3月 徳島県教育委員会の博物館登録原簿に変更登録(旧博物館の登録[昭和35年6月]を変更)
- 1995年5月~98年3月 開館5年目の1995年度から、常設展の全面更新について検討する
- 1996年12月 重要文化財公開承認施設に認定される(5年毎更新)
- 2003年7月 科学研究費補助金の申請を行うことができる学術研究機関に指定される
- 2005年度 開館15年目を目途とした常設展の全面更新を検討する
- 2007年度 現実的な常設展更新の方向性を議論し、新たな基本計画案をまとめる
- 2010年度 文化の森総合公園開園25周年記念事業「安全安心のモデル事業」の一環として、博物館常設展示室のフレッシュアップを実施する(サインやパネルの更新、多言語解説の導入など)
- 2021年8月 新常設展グランドオープン
引用文献:徳島県立博物館 常設展目録
常設展のまわり方
左下のロビーゾーンから出発することになります。1番~13番までのセクションがあります。
順路が少し分かりづらく迷う人も散見されましたが(私も迷いました)、係員が多く配置されていますので、尋ねると優しく教えてくれます。入場時に手渡されるリーフレットにもマップが載っていますので、確認しながら進みましょう。
私はVR体験も含めて全て回りました。ゆっくりと観覧したため、所要時間は2時間程度となりました。すごくボリューム豊富です。
以下では、各セクションの説明を、「徳島県立博物館 常設展目録 徳島まるづかみ‐“いのち”と“とき”のモノ語り‐」と、実際の写真を交えて行っていきたいと思います。
1.徳島恐竜コレクション
羽ノ浦丘陵や勝浦川盆地周辺などには、白亜紀の地層が分布しています。これらの地層から産出した恐竜をはじめとする、さまざまな動植物の化石を紹介しています。特に勝浦町では、四国で初めて、恐竜の化石が発見されており、その後の発掘調査でも貴重な化石が発見されています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
(産地)勝浦町
(時代)白亜紀前期
2019年(令和元年)の発掘調査で獣脚類の歯が発見されました。歯の縁にギザギザの刻み(鋸歯)があることから、肉食恐竜のものとわかります。また、歯の側面にはわずかに波状の凹凸があり、アロサウルス類の歯の特徴と一致します。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
徳島以外にも、世界各地の恐竜の化石も展示されています。本格的な恐竜展示セクションは「12番・地球と生命の歴史」にあります。
(産地)アフリカ
(時代)白亜紀前期
白亜紀前期にアフリカに生息していた竜脚類ティタノサウルス形類の一種です。白亜紀前期の竜脚類のなかでも頭骨が発見されている数少ない種類です。全長10mほどと、竜脚類としては、比較的小さな種類です。勝浦町で発見されている竜脚類は、原始的なティタノサウルス形類と考えられますが、マラウィサウルスは、より進化したティタノサウルス形類に含まれます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
プロバクトロサウルス(恐竜類)
(産地)中国・内モンゴル自治区
(時代)白亜紀前期
中国とソ連の合同学術調査(1959~1960年)で中国の内モンゴルから発見された白亜紀前期(約1億3000万~約1億年前)の植物食恐竜の一種です。歯の構造からイグアノドン類とその進化型であるハドロサウルス類の中間に位置すると考えられます。勝浦町から発見されたイグアノドン類の歯の持ち主もこのような姿をしていたと思われます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
2.地質時代の徳島
徳島を含む四国地方では、ほぼ東西方向に、時代やでき方の異なる岩石や地層が帯状に並んでいます。それらは四国の土台であり、付加体とよばれる岩石や地層の複雑なあつまりです。さらに、付加体の上にさまざまな時代の地層が覆いかぶさっています。ここでは、徳島をはじめ四国の地質や化石について紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
(産地)上勝町
(時代)白亜紀前期(物部川層群)
形が三角形に近いことから、「三角貝」と呼ばれます。この化石は本来、殻があった部分が風化作用によって溶けてしまい、凹型だけになっています。このように本来、存在していた部分が消失し、型だけになってしまった化石を「印象化石」といいます。プテロトリゴニアは、羽ノ浦層や傍示層から多く見つかることから、日本地質学会によって徳島県の「県の化石」に認定されました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
(産地)鳴門市
(時代)白亜紀後期(和泉層群)
和泉層群からは、異常巻きアンモナイトとよばれる巻きのほどけた種類のアンモナイトが多く産出します。「異常巻き」という名前ですが、種ごとに規則的な巻き方をしています。プラビトセラスは、S字状に巻いた殻をもち、日本で産出する異常巻きアンモナイトのなかでも、とくに変わった巻き方をするもののひとつです。これまで、プラビトセラスの産出は、世界中で鳴門と淡路島、北海道からしか知られていません。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
(産地)鳴門海峡海底
(時代)第四紀更新世後期
日本列島で最も多く化石として見つかるゾウで、約40万年前から2万年前の北海道から九州に生息していました。帽子をかぶったような頭骨をしており、身体のサイズはアジアゾウよりやや小柄でした。「お雇い外国人」だったドイツ人地質学者のエドムント・ナウマンが研究したことから、この名がつけられました。鳴門海峡を含む瀬戸内海から、多数の化石が発見されています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
ヤベオオツノジカ
(産地)岐阜県群上市熊石洞
(時代)新生代第四紀更新世後期
ナウマンゾウとともに、北海道から九州までの日本列島各地に生息していました。前後に分かれた大きなツノが特徴です。四国では、高松沖の海底や愛媛県の洞窟堆積物から化石が発見されています。
中央構造線とは?
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
3.先史・古代の徳島
先史・古代では、約2万年前から11世紀後半までの時代を扱っています。徳島に初めて人がやってきてから、自然環境の変化や東アジアとの交流の中で、生産技術や社会構造を変化させながら、現在の徳島県へとつながる「阿波国」が誕生するまでの人々の姿や、旧石器時代から平安時代までの社会とくらしを紹介しています。銅鐸や埴輪といった多彩な資料を展示しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
旧石器時代から縄文、弥生時代までの道具の変遷
個人蔵
旧石器時代
1967年(昭和42)に徳島で初めて確認された旧石器時代の道具です。発見された137点の石器の大部分は、徳島県南部で採れるチャート製です。遺跡からはチャートの石塊が見つかっていることから、廿枝遺跡では、材料となるチャートを産地から運びこんで、石器を作っていたことがわかりました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
古屋岩陰遺跡出土資料(那賀町)
縄文時代
古屋岩陰遺跡は、那賀川水系の古谷谷川左岸山腹にある縄文時代の遺跡です。張り出した巨大な石灰岩の岩盤を屋根代わりとして利用した岩陰遺跡で、縄文土器の破片や、石鏃・楔形石器、動物の骨を加工した道具、カワニナやシジミの貝殻などが出土しました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
弥生時代
若杉山辰砂採掘遺跡は、阿南市にある弥生時代後期から古墳前期の辰砂(赤色顔料の原料となる鉱石)採掘遺跡です。1984年(昭和59)から88年にかけて、徳島県博物館が発掘調査を行い、辰砂、石杵・石臼といった辰砂採掘の道具、土器、勾玉などが出土しました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
伝長者ヶ原1号銅鐸(阿南市)
弥生時代
江戸時代に阿南市山口町で発見された2つの銅鐸の一つで、全高60.2㎝、少し欠損があるもののほぼ完全な形で残っています。全面に赤色顔料が確認できることから、「朱塗りの銅鐸」とよばれ、材質調査によって、赤色顔料には貴重な「水銀朱」が使用されていることが分かりました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
銅鐸を実際に鳴らすことが出来ます。軽く叩いただけで、大きな音が出ることに驚いている方がたくさんいました。撮影ヲヲクラゲ。鳴らしている方は観覧者様。許可を取って撮影。
銅鐸の用途について
見た目が鐸(持ち手付きの鐘)に見えるので楽器のように思うが、現在のところ用途は未だ定かではない。
1世紀末頃には大型化が進み、鈕が薄手の装飾的なものへの変化が見られることから、銅鐸の利用法が、音を出して「聞く」目的から地面か祭殿の床に置かれて「見せる」目的へと変化したとする説が支持を集めている。これは「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への展開と呼ばれ(田中琢)、鈕・鰭外部に耳が付くことが多くなる。また、すでに鳴らすことを放棄した設計であるにも関わらず、長期間「鳴らす」銅鐸の「延命」の工夫であるはずの内面突帯が増加(三重化)されたものもある。これは通常目に触れることのない内面にまで装飾の手が伸びた、もしくは「鳴らす」ためとは別の目的があった可能性が考えられる。
引用文献:Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%90%B8
前山遺跡出土埴輪(小松島市)
古墳時代
小松島市田浦町の前山遺跡で出土した古墳時代後期の埴輪です。詳細な出土状況の記録は残っておらず、どの古墳に伴うものなのかはわかっていません。徳島県内で出土している埴輪の多くが破片資料であるのに対し、前山遺跡では、朝顔形埴輪、人物埴輪、蓋などがほぼ完全な形で出土しています。また、奈良県・大阪府・和歌山県を中心に分布する「石見型埴輪」も出土しており、近畿地方との関係が注目されています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
埴輪は、3世紀後半から6世紀に古墳の上に並べられた焼き物です。被葬者の生前の姿や役割、儀礼の様子を表現したと考えられています。前山遺跡の埴輪は、徳島県では数少ない、全体像のわかる「形象埴輪」です。古墳時代後期につくられたもので、小松島市の前山遺跡で出土しました。
人物埴輪:現在は髪の毛のパーツが失われてしまっていますが、本来はみずらを結った男性の埴輪です。また、左腕は胸の前に掲げていました。
石見型埴輪:奈良県・和歌山県を中心に分布する特殊な埴輪で、四国ではほとんど出土していません。近畿地方からの技術伝播を受けて制作されたと考えられています。
3世紀中ごろ、前方後円墳が大和(奈良県)で生まれ、4世紀には日本列島の広い範囲で築かれるようになりました。
古墳は、3世紀中ごろから7世紀に築かれた巨大な墓です。古墳が築かれた時代、各地域の首長は畿内勢力を中心とする政治連合に組み込まれ、その地位や権力は、古墳の形と大きさで表されました。
地位としては、前方後円墳が最も高く、方墳が最も低いです。また、古墳が大きいほど地位が高いとされています。
4.中世の徳島
中世は荘園・公領が支配と生活の場になった時代で、11世紀後半から16世紀後半までをいいいます。朝廷や幕府などが並び立って全国を支配し、実力を高めた武士や、民衆の活動が活発でした。また、仏教やまじないなどの信仰が浸透していました。平安時代後期~戦国時代の阿波の歴史について、板碑や古文書などを通じて紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
板碑
板碑は、12世紀末から16世紀にかけてつくられた石造物です。亡き親族を供養したり、生前に自らの冥福を願ったりしてたてられました。本尊、造立の趣旨、年月日などが刻まれており、吉野川と鮎喰川の流域を中心に2000基以上残っているといわれています。中世阿波に特徴的な仏教文化の遺産です。道ばたや寺社など、あなたの身近な場所に、何百年もの時を超えてたっている板碑があるかもしれません。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
細川氏は、14世紀前半、足利尊氏による決定を受け、一門の細川氏が阿波に入りました。室町幕府の成立後は、阿波守護として、支配を進めました。細川氏は、所領であった秋月荘(阿波市)に拠点を置きましたが、15世紀に勝瑞(藍住町)へ移ったと考えられています。南北朝動乱の時代、北朝・幕府方の細川氏は南朝方と敵対したようですが、着実に阿波を平定していきました。
大日本六十余将 阿波 三好修理大夫長慶
19世紀
三好長慶(1522~1564)は阿波出身の戦国武将。一時的に、室町幕府に頼らないで独自の政治を行ったほか、一族や重臣とともに、畿内とその周辺、四国東部を支配し、三好氏の全盛期を築きました。この資料は幕末期のもので、錦絵武者絵に秀でていた歌川芳虎の作。後世における長慶のイメージがうかがえます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
徳島県指定有形文化財
10世紀に造られたとみられ、頭・体のおもな部分を1本の針葉樹から彫り出しています。着ている裳のすそが短く、両足のすねがあらわれた珍しい姿をしています。像の立つ台座に墨書があり、この仏像が真国寺(所在不明)の本堂に安置されていたこと、麻植遠江守を施主として、1541年(天文10)に修復されたことがわかります。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
緑色片岩
「緑色片岩」(通称「青石」)は結晶片岩のひとつで、この博物館の建物にも使われています。また、展示のなかでは、いろいろなところで結晶片岩について紹介されています。
5.近世の徳島
近世は、主に安土桃山時代と江戸時代を指し、16世紀後半から19世紀後半までをいいます。阿波では、近世を通じて蜂須賀氏による支配が続き、徳島藩の領内では、阿波藍など多くの特産物が生産されました。また、四国遍路を中心とする旅が人々の間に浸透していきました。ここでは、江戸時代の阿波国の歴史を中心に紹介しています。とくに、徳島藩や阿波藍、四国遍路、刀剣などに関する資料を展示しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
寺島川沿いには、鉄砲を撃つための小窓がある「屏風折れ塀」を設け、敵の攻撃に備えました。
徳島城最大の鬼瓦
1751年(寛延4)7月
徳島城表御殿の屋根に設けられていたと考えられています。現存する徳島城の鬼瓦では、最大のものです。
鬼瓦の左右には、つくられた年代「寛延四歳 未七月」と、作者の名前「谷川瓦師 嘉左衛門」が見えます。このことから、1751年(寛延4)7月に谷川(大阪府岬町)において、瓦師の嘉左衛門が制作したことがわかります。
政治・経済・社会の中心地、徳島城下町
徳島城を中心に、城の周囲に武家地がおかれ、内町や新町などに町人地がつくられました。眉山の麓には、寺町が配置されました。1685年(貞享2)の城下の入口は、2万590人(武士身分の者を除く)でした。1889年(明治22)の徳島市の人口は6万人余りとなり、全国10位の人口規模の都市に発展しました。
ちなみに2021年の徳島市の人口は25万人まで増えていますが、全国の市の人口順位では、87位と落ち込んでいます。
参考文献:Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%B8%82%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3%E9%A0%86%E4%BD%8D
刀剣には、太刀、打刀、脇差、短刀などがあります。
太刀は長さがあり反りがふかく、騎馬戦で使いやすい形をしています。打刀は短めで反りがあさく、徒歩戦に向いた形をしています。脇差は打刀などにそえられる刀剣、短刀は長さがおおよそ1尺(30.3㎝)以下のものです。地鉄や刃文の様子から、つくられた所や作者がわかることがあります。
激しい戦乱の時代、武器である刀剣が阿波でつくられました。
刀剣は、慶長期(1596~1615)以前の作を「古刀」、以後の作を「新刀」、18世紀後半から後の作を「新々刀」とよびます。古刀期には、大和(奈良県)、山城(京都府)、備前(岡山県)、相模(神奈川県)、美濃(岐阜県)の5か国が有名な産地でした。阿波の海部群にも、氏吉、泰吉、泰長などの刀工がおり、さかんに刀剣をつくりました。
海部庖刀
海部刀工の氏吉は、1660年(万治3)に徳島藩主蜂須賀光隆に召され、城下に移りました。そして代々が氏吉を名のり、海部庖刀をつくって毎年藩主に献上しました。庖刀は脇差が多く、その形から「海部の山刀」とも呼ばれました。 海部庖刀は、刃のついた部分に作者銘がある、ほかに例のない刀剣です。
海部の伝統だけでなく、他国の流行にならう刀剣もつくられました。
展示の刀は、惣左衛門尉永次(?~1710)が、1667年(寛文7)に徳島の城下でつくりました。反りがあさく、先幅がややせばまり、当時上方で流行っていた姿をしています。永次には、大阪で修行をした刀工との合作刀も残されており、技術の交流がうかがえます。
金貨・銀貨・銭貨
徳島藩では、銀貨が取引や貨幣計算をする際の基準となりました。金額が小さいものは銭貨が使われました。
江戸幕府は、金貨・銀貨・銭貨の三貨からなる貨幣制度を確立させ、全国で通用する貨幣を供給しました。東日本ではおもに金貨(金遣い)、西日本ではおもに銀貨(銀遣い)が取引の中心となりました。銭貨は全国で使用されました。大判1枚=10両。大判は通常、取引には利用されず、贈答用などに用いられました。
小判1枚=1両。1両で大人ひとりの約1年分の米が買えたとされます。
金1両=銀50~60匁=銭4000文。実際にはその時々の相場によって取引が行われました。
6.近現代の徳島
近現代は、19世紀後半以降を指し、社会や国民の生活は大きく変化しました。明治、大正、昭和時代には戦争が繰り返し行われ、戦禍は徳島県にも及びました。敗戦後の復興、高度経済成長を経て今日に至るまで、人々が豊かな生活を営むことができるよう努力が続けられています。ここでは、明治時代以後の徳島県の歴史を紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
徳島大空襲後の市街地
1945年(昭和20)7月4日午前1時24分から3時19分までの間、徳島市街地はアメリカ軍のB29爆撃機129機による爆撃を受けました。大量の焼夷弾が投下され、徳島市域の約60%が焼け野原になりました。徳島市の当時の人口約11万人のうち、死者は約1000人、重軽傷者は約2000人、被災者は約7万人にも及びました。戦後の復興は、焼け野原から始まりました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
日本資糧工業株式会社の宿直員が社長に宛てたもので、徳島大空襲の被害状況などが克明に記録されています。4日未明にB29爆撃機が徳島市内の前川や佐古に焼夷弾を投下したのをはじめ、次々と後続機が侵入し3時ごろまでの約2時間にわたり、焼夷弾を投弾し続けたことが報告されています。
考文献:徳島県立博物館 常設展目録
戦後、復興のあゆみをはじめた日本は、1950年代中ごろに高度経済成長期を迎えます。社会や生活様式は一変し、徳島県内外における交通網の整備が進められました。
一方、地方から都市への人口流出や環境問題など、多くの課題が生じてきました。人びとが持続的に豊かな生活を営むことができるよう、課題解決に向けた取組みが続けられています。
パーソナルコンピューター(MZ-80)
1976年(昭和51)ごろから日本産の製品が発売されるようになりました。シャープ株式会社製。
7.徳島のまつりと芸能
徳島は、温暖な気候と多様な自然に恵まれた地域です。藍に代表される多くの産物を全国に供給し、政治、経済、文化の中心地であった畿内や江戸との交流を盛んに行ってきました。人々は自らのまつりや芸能に、他地域から流行を取り入れ、阿波踊りなど様々なまつりと芸能を生み出し、受け継いできました。ここでは、阿波人形浄瑠璃、阿波踊り、神社でのまつりに関する資料を紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
阿波踊り
阿波踊りは徳島名物として多くの絵葉書となっています。古い絵葉書と見比べると、現在までにいたる阿波踊りの変遷に気づきます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
三番叟は、能楽に起源をもつ儀式の舞です。千歳、翁、三番叟の三役で、天下泰平、国土安穏、五穀豊穣を祈ります。徳島では、19世紀ごろから木偶(木でできた人形)による三番叟を神事として奉納する例が多く見られます。
人形浄瑠璃芝居の開演時や地神、産土のまつりに「式三番叟」として上演され、新年には門付け「三番叟まわし」が家々を訪れ祝福します。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
阿波人形浄瑠璃の特徴のひとつは、人形師(人形をつくる人)を多く輩出してきたことです。
淡路から阿波に移り住んだ駒蔵を筆頭とし、鳴州、人形富、人形忠、初代天狗久などが優れた作品を残しています。近年では「三千良」という銘の人形頭が発見されました。また、4代大江巳之助は、戦災で焼失した大阪文楽座の首をつくり、復興につくしました。
初代天狗久について
本名、吉岡久吉、安政5年(1858)5月徳島市国府町中村の笠井家に生まれる。16歳で和田の人形富に弟子入りをし、十年後、吉岡家の養子となり天狗久で独立した。[日下開山] [久義]の銘を入れた有名な作品がある。
現存している作品は明治20年前後のものが多く残されている。
明治25,6年ごろから頭の目にガラスを使うことを考案した。
それまでは木で作った目であった。阿波人形の頭が写実的になったのは天狗久の作品からである。
文化映画 [阿波のデコ] [淡路の人形芝居]に出演、宇野千代の[人形師天狗屋久吉]、久米惣七の[天狗屋久吉芸談]などの書物に登場している。
阿波木偶の伝統的技法を守りつつも、頭の大型化や硝子目の採用など,阿波や淡路の舞台で映える頭を目指した工夫を重ね、昭和18年12月20日、86歳で亡くなるまで、生涯に手がけた頭は優に千を超えると言われている。四十数点の作品が徳島県文化財に指定されている。
参考文献:五分利堂 http://goburido.sakura.ne.jp/tengu.htm
8.徳島の自然とくらし
徳島の気候や地域は変化に富んでいます。県南部の温暖な気候から、標高2000m近くになる剣山周辺の冷涼な気候までさまざまです。県の面積のおよそ80%を占める山地には、谷の深い険しい地形が多く見られます。また、県内には吉野川や那賀川など多くの河川があり、豊富な水資源をもたらしています。徳島の多様な自然環境には多くの生き物が棲んでおり、私たちのくらしと自然の関わりかたもさまざです。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
山の生きもの
徳島県の大部分を占める山地は起伏に富んでいます。森林のほとんどは、スギやヒノキの植林ですが、家や田畑の近くには、コナラなど落葉広葉樹の二次林があります。また、標高の高いところには、ブナやウラジロモミ、ツガ、シコクシラベなどの自然林が残っており、タカネオトギリやコモノギクなどの珍しい生きものが見られます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
日本で知られている約800種のカタツムリのうち、実に170種以上が徳島にいます。カタツムリは殻を作るのに石灰分を必要とするため、雨が豊富で、石灰岩地の多い徳島はたいへん住みやすいところです。自力で遠くへ移動できないため、県内のあちこちに存在する石灰岩地でそれぞれ独自に進化し、その地域にしかない固有種がたくさん生まれました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
アナンムシオイは、世界でも阿南市にしか生息しておらず、それも市内の石灰岩地帯のわずか 2km の範囲に限られています。2013 年に新種として発表されたカタツムリの一種です。殻の大きさは約 3 ミリで,カタツムリと聞いて多くの人がイメージするセトウチマイマイなどと比べると、10 分の 1 ほどの大きさしかありません。小さいことに加えて、個体数が少なく、落ち葉の下にいるため、簡単には見つからない珍しい生物です。
その場所でしか見られない種を「固有種」と呼びますが、アナンムシオイは日本の固有種であり、阿南市の固有種であり、今のところ加茂谷地域の固有種でもあります。これほど生息範囲が限られているのは、石灰岩などの特殊な地質が関係していると考えられています。
引用文献:生物多様性あなん戦略 https://www.city.anan.tokushima.jp/docs/2019110500018/file_contents/191107.pdf
ニホンカモシカはオスにもメスにも角があり、生え変わることはありませんが、ニホンジカはオスのみに角があり、毎年生え変わります。日本に生息する野生のウシの仲間はニホンカモシカのみで、国の特別天然記念物に指定されています。
カモシカは、広義には、ウシ目(偶蹄目)ウシ亜目(反芻亜目)ウシ科ヤギ亜科の、ヤギ族以外、すなわち、サイガ族・シャモア族・ジャコウウシ族の3族の総称。8属10種が属します。シカの名が入っていますが、シカの属するシカ科ではなく、ウシやヤギと同じウシ科に属します。
カモシカは漢字で「氈鹿」と書きます。日本古来の毛織物を氈と呼んでいたようで、カモシカの毛がモコモコで材料に適していたことから“かも”が取れる“シカ”ということで、「カモシカ」と呼ばれていました。
また、カモシカはもともと「カモシシ」と呼ばれていて、猟をして食べるお肉全般が「シシ」と呼ばれていたので、「シカ」の部分は「鹿」の意味ではなく、「お肉」の意味だったと考えられます。
参考文献:NHK読むらじる https://www.nhk.or.jp/radio/magazine/article/yamacafe/kDdHkC_Pgq.html
川の生きもの
徳島県には日本三大暴れ川のひとつとして有名な吉野川(別名:四国三郎)をはじめ、那賀川や海部川などたくさんの川が流れています。これらの川はそれぞれ様相が異なり、そこに生息する生きものもまた異なります。豊富な水は生きものたちを育み、人々はその恵みを受けながら生活しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
強大な暖流である黒潮は、琉球列島、九州、四国、本州南部の沿岸を北東に流れます。この黒潮の流れに乗って、南方から様々な魚が徳島県に流れ着きます。その代表がオオウナギです。オオウナギは海で産卵し、幼生は黒潮によって流され、川を遡上します。徳島県のオオウナギは長い旅の末、この地にたどり着いたのです。
カワバタモロコ
日本でもっとも小さなコイの仲間。オスはメスより体が小さく、3㎝ほどで、メスは4~6㎝ほどになります。この小さな魚は、梅雨の時期に川の水があふれてできる氾濫原と呼ばれる場所で主に産卵します。氾濫原は敵がおらず、エサも豊富で稚魚のよいゆりかごです。吉野川は大雨のたびに大洪水を起こしてきた暴れ川で、カワバタモロコにとっては好ましい生息地でした。しかし、吉野川やその支流にダムや堤防などが建設されることで洪水が抑えられ、本種は徳島県から姿を消しつつあります。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
海の生きものや、くらしと道具
徳島県は太平洋や紀伊水道、播磨灘という3つの異なる海域に面しています。暖かな黒潮の影響を受ける太平洋、激しい海の流れと複雑な海岸線が続く紀伊水道、穏やかな瀬戸内海の播磨灘。これらの海域はそれぞれに特徴があり、そこに広がる環境や生息する生きものにも違いが見られます。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
9.自然史コレクション
自然史コレクションでは、色や形が美しいことから人気のある鉱物の標本とともに、ふだん展示していない動物・植物・地学の各分野の資料を、テーマを決めて展示します。おもしろい色や形の鉱物や、さまざまな動物、植物、化石標本などを、機会あるごとに紹介します。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
自然の無機質の固体を鉱物とよんでいます。石英・黄鉄鉱などはよく知られている鉱物です。大部分の鉱物は何らかの結晶としての性質をもっています。鉱物の種類は、化学組成と結晶構造によって定義されています。そのため、同じ種類の鉱物でも、産地やでき方、条件などにより、見かけはいろいろです。この点が鉱物の肉眼鑑定の難しい点でもあり、おもしろいところでもあります。
10.歴史・文化コレクション
徳島県立博物館には、常設展で展示されている以外にも多くの資料が収蔵されています。歴史・文化コレクションでは、考古、歴史、民俗、美術工芸の各分野について、テーマと期間を決めて資料を公開します。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
守住貫魚(1809~1892)は、通称を徳次郎、字を士済、画名を輝美、定輝、貫魚と改め、是姓軒、回春斎などと号しました。徳島藩の銃手の家に生れ、幕府の絵師である住吉広定の弟子になり、やまと絵の流派を学びました。1838年(天保9)に徳島藩に召され、画作にはげみました。
守住貫魚には二つの顔があります。ひとつは作品を制作する絵師としての顔。もうひとつは、歴史をさぐるよすがとなる古器物を、写生し、拓本にとり、模型にする記録者としての顔です。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
源氏物語夕顔図
貫魚は、徳島藩の意向をうけて多数の源氏絵を制作しました。その多くは白描風の墨絵になり、朱などをわずかにさして金泥を塗っています。なかには画面の寸法や表具がおなじ例もあります。彼の源氏絵は藩主家で鑑賞される以外に、贈答品や褒美品にされたようです。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
2通の免状
修行中の絵師は、画技がある段階に達すると、師から名前の一字をもらい自身の名をあらためます。貫魚は、1829年(文政12)に渡辺広輝から「名字免状」をもらい、輝美と名乗りました。1835年(天保6)には、住吉広定から「免状」をもらい、定輝とあらためました。貫魚はこれらの免状を大切に保管しました。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
11.県民コレクション
徳島県立博物館は、県民と協働して調査や展示、普及行事などを行い、自主的な学びや地域活動を支えています。このコーナーでは、それらの活動の成果を発表します。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
12.地球と生命の歴史
約46億年前、地球が誕生し、そして、約40億~38億年前ごろには生命が誕生していたと考えられています。生命は、海のなかで誕生し、長い期間、微小な生物でありました。しかし、約6億~5.5億年前になると、大型の生物が現れました。そして、4億年前ごろには、生物は陸上に進出し、その後、さまざまな環境に適応し、進化していきました。ここでは、岩石や化石を通して、地球と生命の歴史を紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
哺乳類の先祖?エクサエレトドン
エクサエレトドンは、獣弓類のなかでももっとも進化したキノドン類というグループに含まれます。
私たち人間を含む哺乳類は、キノドン類から進化したことがわかっています。エクサエレトドンは、すでに哺乳類としての特徴をもっており、それらの歯は、食べ物をすり潰すための臼歯、噛み切るための門歯、また鋭い犬歯と歯の役割が分かれていました。また、子どもの時には乳歯をもっており、大人になると永久歯に生え変わっていました。
ゾウの仲間は、南極とオーストラリアを除くすべての大陸に180種にのぼる多様な種類が知られています。
しかし、現在地球上に生息しているゾウはわずか3種です。
ゾウの祖先は古第三紀にアフリカ北部で生まれ、新第三紀中新世には日本列島に現れたことが知られています。日本では、新第三紀鮮新世になるとミエゾウが、第四紀更新世にはアケボノゾウやトウヨウゾウ、ナウマンゾウなど数種のゾウが、それぞれ異なる時代に生息していました。
国内最大規模!南アメリカ大陸の哺乳動物化石
ラプラタコレクションについて
1985年から1992年までの3回にわたって、徳島県はアルゼンチンのラプラタ大学と文化交流を行い、脊椎動物化石などの寄贈をうけました。
白亜紀後期の南アメリカ大陸は他の大陸から隔離され、そこにすむ動物も独自に進化しました。その後、約300万年前にパナマ地峡が成立すると、南北アメリカ大陸の動物行き来するようになりました。しかし約1万年まえに、大型哺乳動物は絶滅しました。このような哺乳動物化石をまとめて所蔵・展示している博物館は国内になく、当館のユニークなコレクションのひとつとなっています。
スミロドン
分類:食肉目ネコ科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:全長約2m
上顎犬歯が発達するネコ科の動物をサーベルタイガー(剣歯虎)といい、スミロドンはそのなかで、最もよく知られている属です。キバ状の大きな上顎の犬歯は、どのように使ったのかあまりよくわかっていません。鮮新世の北アメリカ大陸に出現し、南アメリカ大陸には約100万年前に進出、更新世末(約1万年前)に絶滅しました。
ヒッピディオン
分類:奇蹄目ウマ科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:肩の高さ約1.5m
現代のウマやロバ、シマウマを含むエクウス属と同様の1本指のウマの仲間です。
北アメリカ大陸で出現して更新世前期(約100万年前)に南アメリカ大陸に渡りました。足がやや短く頭が大きく、外見的にはロバに似ていたと考えられています。北アメリカ大陸と南アメリカ大陸では、更新世末から完新世前半にかけて、ウマの仲間はすべて絶滅していました。
ステゴマストドン
分類:長鼻目ゴンフォテリウム科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:肩の高さ約2.8m
中新世から鮮新世にユーラシア大陸で栄えた、小型で胴長のゴンフォテリウムの子孫にあたるゾウです。
大型ですが、アジアゾウよりは胴長で短い足をしていました。ステゴマストドンは、もともと北アメリカの草原にいましたが、100万年前に南アメリカ大陸に渡り、更新世末に絶滅しました。
トクソドン
分類:南蹄目トクソドン科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:全長約2.7m
古第三紀から新第三紀に繁栄した、南アメリカ大陸固有の南蹄類というグループに属する哺乳類です。多くの南蹄類は第四紀までに絶滅しましたが、トクソドンは更新世後期まで生き延びました。南蹄類の中では最大で、がっしりした骨格と3本指の足を持っていました。サイのような姿をしていましたが、とくに近縁ではありません。ダーウィンが発見し、「今まで発見された中で最も奇妙な動物」とよんだことでも知られています。
メガテリウム
分類:異節類有毛目メガテリウム科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:全長約6m
更新世後期の南アメリカを代表する哺乳動物で、オオナマケモノともいいます。現在も中央アメリカ・南アメリカの森林にすむナマケモノに近い仲間です。体が大きいので木にぶら下がることはできず、腕とかぎ爪を使って樹木の枝をたぐり寄せ、木の葉を食べていたと考えらえています。完新世初頭(約1万年前)まで生息していたようです。
パノクツス
分類:異節類被甲目グリプトドン科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:約3m
大きなドーム状の甲羅をもったアルマジロの仲間です。甲羅は6角形の小さな骨質の板が組み合わさって出来ています。尾には小さいトゲがつき、棍棒のようでした。これらは、捕食者に対する武装と考えられています。性質はおとなしく、旧石器人のかっこうの獲物だったようです。約1万年前に絶滅しました。
ティタノサウルス形類って?
ティタノサウルス形類は、ジュラ紀後期に出現し、恐竜時代を最後まで生き延びた竜脚類の仲間です。ブラキオサウルス科は長い前肢と首をもち、より高い位置の植物も食べることができたと考えられています。ティタノサウルス類は、馬ほどの小型の種から全長30mを超える巨大な種までとても多様でした。ネウケンサウルスは、ティタノサウルス類のなかでももっとも進化した種です。
マクラウケニア
分類:滑距目マクラウケニア科
産地:アルゼンチン・ブエノスアイレス州
時代:更新世後期
大きさ:全長約3m
南アメリカ大陸だけにすんでいた、滑距目という蹄のある哺乳類です。首と四肢が長いところはラクダに似ていますが、全く別のグループです。鼻孔が高く、眼の上にあることから、ある程度長い鼻を持っていたと考えられています。最近の研究では、滑距目はバクやウマ、サイなどの奇蹄目に近縁との報告があります。ビーグル号の航海でダーウィンが発見したことでも知られています。
ティラノサウルス
分類:獣脚類ティラノサウルス類
産地:アメリカ・モンタナ州
時代:白亜紀後期
大きさ:全長約12m
白亜紀末期の北アメリカ大陸に生息していました。2本指の前肢はたいへん小さいですが、がんじょうな後肢と尾、鋭い牙のついた顎をもちます。近年は羽毛が生えた復元もされています。展示されている全身骨格の原標本は、1908年に発見されたもので、アメリカ自然史博物館に展示されています。
ラエトリの足跡
発見場所:タンザニア北部ラエトリ地方
時代:新第三紀鮮新世(約360万年前)
1973年に発見された足跡の一部。3人のアファール猿人が残したもので、最古の人類の足跡です。2列あり、大きな足跡の列と同じ場所に、小さな足跡が重なっています。この足跡の発見によって、初期人類が石器の製作や脳の拡大の前に、直立二足歩行をしていたことが証明されました。
13.生物の多様性
生物多様性には、遺伝子の多様性、種の多様性、生態系の多様性という3つの階層があります。同じ種も個体や集団によって異なる色々な遺伝子を持っていることを遺伝子の多様性、様々な種がいることを種の多様性、森林や草原、川や池など様々な自然環境があることを生態系の多様性といいます。生物多様性は私たちの生活に欠かせない水や食料、医薬品など多くの恵みをもたらしています。ここでは、現在の地球で見られる多種多様な生物の標本を展示しています。また、自然環境の悪化にともない、地球上の生物の多様性が失われつつあることも紹介しています。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
陸上で生活する動物において、肢はその種の生態を反映するとても重要な部位です。
蹠行性:指から踵までが地面につきます。バランスを取るのに優れます。ツキノワグマなど。
指行性:指のみが地面につきます。バランスと推進力を両立します。イヌなど。
蹄行性:指先のみが地面につきます。推進力を得るのに優れます。イノシシなど。
哺乳類では、私たちヒトも、イヌやネコ、イルカ類やキリンでさえも頸椎(首の骨)の数は7個です。これは哺乳類が同じ祖先から進化し、多様化したことを裏付ける特徴です。キリンでは一つ一つの頸椎が大きくなり、首が長くなっています。頸椎の特徴は、その哺乳類の生態や進化の歴史を物語ります。
ラフレシア
ラフレシアは東南アジアにしか分布していない植物です。花が大きく口がぽっかり開いているので、食虫植物のようにほかの動物を食べるように見えますが、ブドウ科の植物に寄生する植物です。ジャングルの林床で大きな花を咲かせます。花からは腐った肉のような悪臭を出し、ハエなどの昆虫を呼び寄せ、受粉します。
生物多様性の危機
生物多様性の危機
地球上の生物多様性が急速に失われつつあります。生きものは、互いに複雑に関わり合いながら生きています。しかし、人間が及ぼす環境の変化により、微妙なバランスで保たれていた生態系がくずれ、多くの生きものが毎日のように絶滅しています。
1年間でおよそ4万種の生物が絶滅しており、そのスピードは過去とくらべて桁違いです。おもな原因は、開発や化学物質などによる生息地の破壊や悪化、生きものの乱獲、外来生物の侵入などで、いずれも私たち人気の活動に影響しています。人間の生活が豊かになる一方で、多くの生きものたちが滅び、多様性が失われています。
絶滅のおそれのある動物
生息場所の喪失や汚染、外来生物の侵入に加えて、毛皮や薬、装飾品、ペットとしての売買などを目的とした乱獲によって、現在、多くの動物がその数を減らしています。動物たちは複雑な生態系の中でそれぞれの役割を担っており、ある種が絶滅してしまうと生態系のバランスが崩れ、他の動植物にも影響を与えてしまいます。また、私たちが食べているウナギやマグロなども、現在では絶滅の危機にさらされています。これらが絶滅してしまうと、私たちの生活にも大きく影響します。
ひろがる外来生物
もともといなかった生物が、人の活動にともなって他の地域からやってきたものを外来生物といいます。その中には、繁殖力が強く、生態系や人間の生活、農林水産業に強い影響を及ぼすものがあり、それらを侵略的外来種とよびます。国はその中のさらに影響の大きい生物を法律で特定外来生物に指定し、放流や種まきなど繁殖につながる人の行動を制限し、駆除を推進しています。
私たちはきれいな花を花壇に植えます。それが逃げ出して道ばたに咲いているものがたくさんあります。また、実にトゲがあって動物や衣服にくっついて外国から入ってきたものもあります。しかし、それらがすべて定着するわけではありません。定着し、分布を広げている外来植物は、もともとそこにいた植物と競合しても生き残ることができる特徴をもっています。
特定外来生物ナルトサワギク
国内では、はじめに鳴門市に侵入した植物ですが、20年以上その正体がわかりませんでした。のちに、オーストラリアで駆除対象になっている植物であることが判明しました。タンポポのように風で飛ぶタネ(痩果)をつけるため、またたく間に広がります。
参考文献:徳島県立博物館 常設展目録
外来生物
外来生物には、体の大きな脊椎動物から微小な昆虫類まできわめて多くの種類が知られています。脊椎動物は、食用やペット、有害動物に対する天敵といった産業的に重要なものが多いため、昔から人間によって積極的に導入されてきました。一方、昆虫類は物資の運搬にともなって予期せず持ち込まれたものがほとんどです。体が小さく食性や生態が多様な昆虫類は、他の動物と比べて、侵入、定着しやすい性質を持ち合わせているのでしょう。
コミュニケーションゾーン
展示担当学芸員一覧
- 山田 量崇(動物)
- 井藤 大樹(動物)
- 佐藤 陽一(動物)
- 小川 誠(植物)
- 茨木 靖(植物)
- 中尾 賢一(地学)
- 辻野 泰之(地学)
- 植地 岳彦(考古)
- 岡本 治代(考古)
- 長谷川 賢二(歴史)
- 松永 友和(歴史)
- 庄武 憲子(民俗)
- 磯本 宏紀(民俗)
- 大橋 俊雄(美術工芸)
まとめ
徳島県立博物館常設展示室のまとめです。
資料の数がとにかく豊富です。全部をしっかり見たり読んだりすると何時間もかかるでしょう。そして、体験コーナーがたくさん設置されていて、楽しめます。記憶にも定着しやすくて、とても良い試みですね。